梅原真デザイン事務所 - UMEBARA DESIGN OFFICE
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砂浜美術館

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ひらひら30年

池田

砂浜にTシャツをひらひらさせて30年。ここまで長く続くと想像していたのですか。

梅原

そうやな。続くことを前提に考えていましたね。本質的なものはいつの時代も変わらない。そういうものをデザイン(考え方)の根っこに仕込んであるので、流行りはない。表層的なものは時代が回れば流行から遅れていくし、変わっていくけれど、根っこだから中心は動かないし、変わりませんよね。砂浜美術館はそういう意味で“中心の本質的なもの”を表現しているから、それはずっと続くと思っていました。

池田

それが「私たちの町に美術館はありません。この美しい砂浜が美術館です」というコンセプトコピーですか。

梅原

そのことばの中に「この風景の向こうに何が見えるのか」という設定をしているのがこの企画であって、ただTシャツが並んでいるだけだと思ったら、ここまで続かなかった。この風景を見る人、受け取る側が世界共通で何かを感じるらしい。
砂浜から地球のことを考える。それがローカルから世界18カ国にグローバルに広がった理由とちゃうのかな。

池田

梅原さんは30年前、この風景の向こうに何を見ていたのでしょう。

梅原

今あらためて何だったのかと考えてみると、この風景の向こう側にある人間の卑しさや権力、行き過ぎて壊れてしまった場面を見ていたんじゃないかな。
あの当時の日本は行政の箱ものづくりがたくさんあった。どの町や村にも立派な美術館や公民館ができていくけれど、運営に困っている。スクラップ&ビルドの時代やったね。バブルに浮かれていた時代でもあって、西武セゾングループの堤清二さんが土佐清水市の大岐の浜と黒潮町 (旧大方町)のこの入野の浜を視察に来た。ハワイのようなリゾート地になるんやな、嫌やな、違うやろと思っていた。
リゾート開発ではなくて、この砂浜を残すこと、何もしないことを選ぶ。何もしないということは単純に反対運動やからね。でも俺はただの反対は嫌いなんや。代案がいる。それが4キロの砂浜にTシャツをひらひらさせることだった。
砂浜に間伐材を立て、ロープを引っ張って全国から募ったTシャツを展示する。最後は返却する。1週間は太陽と月の光で鑑賞する。
ランニングコストはかからないし、今で言えばゼロエミッション。そしてSDGs。環境に対する負荷はまったくない。365日この砂浜はここにある。考え方で巨大な美術館がお金をかけずにタダでできる。作品のクジラを見にいくのに船で2時間ほどかかる。巨大やで、この美術館は。
言い換えれば、これは俺の社会への笑いと皮肉でもあったと思うね。30年経って、砂浜4キロの生き方への答えは出たんじゃないかな。

池田

そもそも、なぜ、Tシャツひらひら?

梅原

1988年やったかな。東京・原宿で「ZAKKA」という雑貨店を営む北出ひとみさんの夫でカメラマンの北出博基さんに出会ったのがきっかけ。裂き織バッグ作家でもあったうちの妻の取引先でもあって、そのご縁。彼は浅井慎平さんの弟子でね、その時、自分で撮った写真をTシャツにプリントしたものを作品として展覧会を開いていた。
ただ、蔵の中だから、Tシャツがたらーんとしている。こんなの、洗剤のコマーシャルみたいに、ひらひらせんとおもろないやんか。どこかで Tシャツひらひらさせたいと思っていた時に、大方町役場の松本さんと畦地さんに会った。砂浜を連れてきた。

地方が自分で何も考えないで
爪先立っているのは、ほろ苦すぎる

池田

それが当時、大方町役場の企画調整係だった松本敏郎さんと教育委員会の畦地和也さん。彼らが初めて事務所に来た日、いきなり「おまえら、アホちゃうか。何やってんねん」と怒った?(笑)

梅原

実はそのとき、彼らは俺の作った十和村(現四万十町)の「十和ものさし」という総合振興計画の表紙を見て、デザインを頼みに来たのよ。
ところが、俺はイベントにしても自分たちは何もしない、人に委ねてやってもらって大成功と喜んでいる行政に腹が立っていた時だったので、彼らに「お前らは芸能プロダクションか。そんなの辞めんかーい」と。2人は何の関係もないのに、なぜ怒られているのか、わからんかったやろな(笑)。
4時間ぐらいの激論の末、こんなのしようや!と、Tシャツアート展の話をしたら、なんと2人は、わけもわからんまま、「これ、うちでやります」と持って帰りました。で、後日、どうやろと大方町を訪ねたら、松本くんに町長室に連れて行かれてね、「おたくの砂浜で T シャツひらひらさせてください」と一緒にお願いしたんやけど、町長はちんぷんかんぷん、「なんや、こいつ」という感じでまったく話が通じへん。俺もその時、きちんと論理的に話すアタマを持っていなかったので、冷や汗が出たで。
そこで、浜田という男が言った。「別にTシャツだけが作品と考えなくても、クジラも松原もみんな作品と考えたらええと思う。」
俺は、大きく膝を叩いて叫んだ。「でけた!」
ほんで、「わかりました、ちゃんと企画書を書いてきます」みたいなことを言ったかどうかは忘れたけれど、その数週間後に初めて企画書というものを書いて、企画調整課の松本くん宛に送った。

池田

それが、あのコンセプトコピーから始まるものですね。ファクシミリから、カタカタとその文字が少しずつ見えてきた時、彼は胸が震えたそうです。

梅原

今でも文字が見えて来たときのことをずっと覚えているらしいな。表現というものが人を微笑ませる。ものの本質をつかんでいる人が笑わせる人や。最初はTシャツシーサイドギャラリーというタイトルでしたが、行政対応として「砂浜美術館」と名付けた。町長に対してTシャツをぶら下げるだけではなく、ウミガメが作品です、クジラが作品です、ラッキョウの花も貝殻も鳥の足跡もみんな作品です、というふうにして出来上がった。これが30年前のスタートラインです。そこからスイッチがぱちっと入った。

池田

しかし、なぜ怒っちゃうんですかね。怒ることで何かが動いている気もしますが。

梅原

俺はね、根っこがすべて義憤やから。ニコニコした方がええに決まっているのに、なぜ、こんな世の中なんや!「アホちゃうか」「違うやろ、それ」というところがないと、考え方が出てこないのよ。どこかローカルに対して批判めいたものがある。常にそこからすべてが始まるのよ。自分たちの風景も何も守らずに、何もない、何もないと言い続けて生きていくのかい、と。
そうじゃない。考え方によって豊かにもなるのに気づかない。そこに地方の悲しさがある。何も考えないで爪先立ってさ、何物かが天から降ってくるのを待っているのは、ほろ苦すぎるやんか。
うちには砂浜しかないんですわ。違うやろ、それは。自分の足元から考えることはないんかい。ほら、俺の場合は町おこしではなく、“町おこり”やから(笑)

デザインは社会を表していると思っている

池田

そして、町のほこりも。

梅原

自分たちのアイディンティーがどうあったのか、個人と同じように町にも意志を持ってほしい。町にもかすかな人の意志のようなものが見えたほうが幸せだし、このまちに住んでよかったと思えることって、リゾート開発ではないだろうと思ったことが砂浜美術館の大きな要素だと思う。
そういう意味では、俺の仕事はデザインではなくて、社会の考え方を作っていく部分をやって来たと思う。考え方をきちんと表すのがデザインで、デザインは社会を表していると思っている。俺の中では考え方とデザインはイコールやね。最終的には笑いでしょ。顔が微笑むようなことをどう作るか。そこが自分の中心にある。この町に住んでよかったと思えることは、そこに微笑みがある。

池田

デザインは社会を表している。
そこに政治を無視できないところもありますか。

梅原

世の中を変えていきたい、世の中をよくしていきたい、今が決して良いわけではないよねというのは、誰でも思うこと。当然、デザインの対象物は政治にからんでいることも多い。たとえば、砂浜にリゾートは作らんでええやんか。そこのところはまさしく政治の場面です。
でも、これは俺の思い込みだけれども、そこから先は政治よりもデザインの方が世の中を変えられる。かつてビートルズはあのスタイル、音楽、言葉で世界をがらりと変えた。人の心の中を変えていくことが、結局、世の中が変わることではないかと、俺はビートルズに学んだ。
デザインを考える上でも社会性をきちんと持ちながら、社会の話もしながらやらないとね。それは要注意やね。一つのイデオロギーに固まらない。その上で本質的なものをアウトプットしていくことがデザインの目的やから。そうしたい、そうありたいと思ってます。

育てたのはまちの人々

池田

そうして、砂浜美術館がまちの人の気持ちまでデザインし始めた。

梅原

彼らが「おい、面白いことをするけん、みんな、集まれや」と、まちの有志に声をかけたら、砂美人連というすごい活動グループが生まれた。住民は勝手にいろんなコンテンツを考え始めた。考え方を持って脳みそをほんの少し揺さぶるだけで、アイデアが湧いてくるということが、町の人たちに次第に伝わっていったということです。

池田

その砂美チルドレンのひとりともいうべき松本敏郎さんが2020年、黒潮町長になった。人の中にも生きるロングデザインになりました。

梅原

30年前、考え方が彼に乗り移り、この人が中心になって砂浜美術館を運営して来た。継続していくためには人を残していかないといけない。それもデザインだと俺は思っているし、そういうことを踏まえた自分の世界観があるよね。しかもロングライフデザイン。
だから砂浜美術館のアイデアを出した後は、できるだけ自分の存在を消して、地域が自分たちで考えていく状況を作り出すようにして来た。世代が変わっても運営していく人がずっと続いていくこと、地元の人がやっていくことをデザインしないと続かへん。
俺は生みの親なだけ。砂浜美術館を育てたのは町の人です。30年は長い。最初の10年は松本さんら立ち上げメンバーたちのエネルギーのままに、グイグイやっていた感じ。次の10年はNPOになって地道に継続を重ねて来た時期。そしてこの10年は砂浜美術館がいろんな世界の国に広がり始めたところ。30年前のスタート当初の企画書に「カリフォルニアの海岸でやる」と書いていた。

池田

しかも、全国に知られているとはいえ、ローカルのちいさな町のイベントなのに、毎回、審査員の顔ぶれがすごいのが不思議です。

梅原

9回目までは言い出しっぺの俺と北出博基さんが審査員やったけど、10年目以降は「自分たちで審査員を見つけろ!その審査員との交流が大きな財産になるから」と。10回目の審査員は写真家の浅井慎平さんとイラストレーターの大橋歩さんを僕がセットした。一廉の人である審査員とのネットワークは財産になっていく。そういうこともデザインのうち。
「何をやっているのか」を見て審査員はやってくるよ!いやなら来ない!今年の審査員は浅葉克己さんでした。審査の後、俺が持っていったまんじゅう食いながら一緒に海を眺めた。

池田

その根っこが揺らがないから可能性があるという感じでしょうか。

梅原

メッセージを出すと、そこに誰かがいて、それを受け取った人が黒潮町に来て、引き継いでいるカタチ。カッコよく言えば「ほうらね」という感じやね。この「ほうらね」という人は、他の仕事でも生まれて来るから面白い。



「ほうらね。」

文・元NPO砂浜美術館事務局 西村優美


砂浜美術館事務局のホームページのコンセプト文を読んだことが、高知に来る始まりでした。惹かれたのは目の前にあるものを生かすという考え方と感覚です。2005年に観光客としてTシャツアート展を見て、2006年にボランティアで設営に参加しました。その時に人の手でこの風景を作るんだということを実感したこと、人の手とロープとクリップと最小限のものがあれば作れるんだと思ったこと、そして、このひらひらは砂浜でなくても似合う風景がありそうだ、風景は作れると思ったのです。


当時、青年海外協力隊としてモンゴルに行くことが決まっていたので、草原でひらひらさせても綺麗だろうなと思ったのが、本当のきっかけです。あえて海外に持ち出そうとか、砂浜美術館の理念を伝えるために行ったというわけでありません。けれど、モンゴル人も草原のことを何もないと言ったりする。そういう感覚は同じかなと思って「草原美術館」として草原にTシャツを並べました。モンゴル人の友達が、砂浜美術館のコンセプトに共感してくれた。それが砂浜美術館にとっての場面転換になったと思いますね。


帰国後、 NPO砂浜美術館事務局に参加したのですが、風景を1枚作ったことで、いろんな国々でやりたいというふうになりました。その考え方は一定ではありませんが、いろんな人の思いをつないだ結果、世界18カ国になったというわけです。
Tシャツを並べることで、ここ自体に価値があるのだと気づいてもらうこと。Tシャツを干すってどこか日常であまり緊張感がない。変な圧迫感がないのも、すごい個性かもしれないし、すごい力を持っているのかもしれません。砂浜美術館のコンセプトの懐の大きさにも気づきましたし、終わりはないということにも気づきました。ずっとずっとその先があって、今は30年はそういう結果だけじゃないかなという気もしています。可能性は終わりません。