梅原真デザイン事務所 - UMEBARA DESIGN OFFICE
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沈 下 橋 モ ノ ガ タ リ

ziguri

ほな、私、住みます。

池田

1989年から4年間、四万十川にかかる沈下橋の向こうに住んだ。それが自分にとっての最大のデザインだったと。

梅原

砂浜美術館にしても、しまんと地栗や新聞バッグ、漁師が釣って漁師が焼いた明神水産の仕事にしても、こうやって話したり、本になったり、文字にしたりすると、どうしても俺の成功事例の発表のようになってしまうやんか。それは今、結果として振り返ってみるから、そう見えるわけで、俺の中では常にその居心地の悪さ、恥ずかしさがある。こういった商品、あるいは考え方をデザインする前にまず、自分のデザインはどこから始まったのかと考えたときに、俺の人生の大きなターニングポイントはあの時、あの沈下橋の向こうにあったなと。これも30年以上経って気づいたことやけどな。

池田

しかし、また、どうして沈下橋の向こうに住むことに?

梅原

2006年の平成の大合併で今は四万十町十和になってますが、以前は十和村だった。その村の総合振興計画「十和ものさし」をつくる仕事で1987年から2年間、高知市から通っていたのがきっかけ。

池田

その「十和ものさし」が策定された時、それまでの総合振興計画とはまるで違っていて斬新で、高知のデザイン業界と行政関係者がざわついたことを今でも覚えています。

梅原

あの頃の俺は、それまで総合振興計画なんて見たこともなくて、いろんな自治体のものを取り寄せて、片っ端から読んだ。でも、どれを見ても現状分析やグラフばかりで、夢やビジョンを描いたものは一つもなかった。自分たちの村の10年後、その未来を考えるためには、東京ではない独自のものさしが必要ではないかと言いたかったし、これから日本はグローバル化が進んでいく。それによって世界とつながれば、地方の独自性が価値を持つようになるんとちゃうかと。俺なりに地方の生き方を考え始めた時期でもあったのかもしれんね。どこにもない、この村だけの今から21世紀への考え方のものさしとして「自然が大事」「人が大事」「ヤル気が大事」の3つを提言した。

池田

ことの発端は、その十和ものさしの中に?

梅原

当時はバブルで国にも潤沢にお金があるので、こんな山奥の小さな村にも予算が回ってきた。村民から「沈下橋を大きな橋に架け替えてほしい」というのが村長に託された陳情でもあって、「十和ものさし」の中には沈下橋を抜水橋に架け替えかけていくと書かれていた。撤去費込みの申請だったわけよ。その時に「あの橋は絶対に壊したらあかん!」 と言ったら、「梅原さんは高知市から来て、地元の不便がわかっていない」と言うから「ほな、私、住みます」と。すべての仕事が終わった後、役場の担当だった由類江秋穂さんに「沈下橋の向こうに家は空いちゃあせんかえ。あれ、壊したらいかんで。家が空いちょったら俺、住みたいけど」と頼んだ。プラカードを持って反対!と叫ぶより、俺がそこに住んだ方がええと思った。

池田

あらまあ。沈下橋のためにですか。

梅原

そうしたら1週間もしないうちに「空いちょるぞ」と電話がかかってきた。茅吹手の沈下橋の向こうに空き家があったーと。俺も沈下橋の向こうに家があったら住むと言った手前、もう後には引けんやんか。その時、「あった」という喜びと「あったんかい」というのの両方があったな(笑)。すぐに一人でその家を見に行ったら、確かに沈下橋の向こうにぼろ家があった。周りは草ぼうぼうでね、床は朽ち落ちていて、屋根には穴があいていた。村の製材所に木材を注文して帰った。

池田

誰に頼まれたわけでもないのに、自分の住まいまで引っ越そうなんて。

梅原

勝手に沈下橋に住んだ。でも今やから言うけど、離婚の危機やったで。四万十に引っ越すと妻に告げた3日後ぐらいに「あなた、そこに座ってください」と言われて、結構、ヤバかった。結局は妻の方が折れてくれて一緒に四万十に移り住んでくれたくれたんやけど、考えてみれば、一番大きなプロジェクトやったな。そこに足かけ4年暮らした。その時の妻の条件は、「沈下橋の向こうに何かをしに行くのではなく、ただそこで楽しく暮らしていくこと」。妻には感謝してます。1989年8月5日に沈下橋を渡って、友人たちが家の修繕に駆けつけて来てくれたり、自分一人で大工仕事をしてね、家が完成したのは11月の半ばぐらいやったね。

ゼロになるのが好き。

池田

ところが、その総合振興計画ができあがった数カ月後、十和村の村長選があって現職が敗れてしまった。

梅原

ガガーンよ。新任の村長は前職の仕事やからと「十和ものさし」を重視せず、結果的には抹殺された感じだった。

池田

村の未来のためのものさしが消えた。当時はすべての仕事を捨てて四万十へ行ったのに。

梅原

それを言おうとすると、ちょっと恥ずかしいものがあるけど。四万十に行く前、お菓子の青柳や、サニーマートというスーパーマーケットの仕事などをしていた。スーパーの仕事は嫌だなと思ったけれど、意外に流通業界というのはすごい勉強の場所やったな。それを置いて四万十に行った。後から青柳の人に「どうやって四万十で食べるつもりだったのか」と聞かれた(笑)。

池田

本当に、どういうつもりだったんですか。

梅原

四万十では毎日、薪割りもした。夏はアユやテナガエビもとったし、家庭菜園もしたし、茶も摘んだ。俺はどうもゼロになるのが好きみたいでさ、29歳のときに、それまで勤めていたRKCプロダクションという高知放送系列の制作会社を辞めてフリーランスのデザイナーになった。自分が自立していけるかどうかすら、わからなかった。20代の頃の自分をプレイバックしてみると、結構、なよなよしているサラリーマンだった。会社を辞めてアメリカに行って帰って来たら本当に無一文。ゼロ地点から始まった30歳やった。それで39歳の時に今度は会社ではなく、社会を辞めた。またまた、ゼロ地点よ。
でも、川の向こうからその沈下橋を渡って、当時、農協の職員だった四万十ドラマの畦地履正くんが「貯金してくれ」とやって来た。それ以降、四万十の仕事がライフワークになった。もし、四万十に行かなかったら、ローカルでこんなふうに仕事をしていたかどうかわからん。

金のなかった俺のデザイン勉強法

池田

ところで、梅原さんがそもそも、グラフィックデザイナーを志したのはいつ頃からですか。

梅原

小学校から高校までは、父の仕事の関係で和歌山に住んでたんやけど。

池田

あっ、だから、関西弁ベースの土佐弁なんですね。

梅原

中学生の時は美術部で、高校では応援団に入った。野球がわりと強い高校で、その野球部が夏の大会で勝ち越したら甲子園に行けるけど、予選で負けたら来年まで応援は要らんのよ。高3の7月、予選で負けて応援団は解散になった。その時点で、俺はヒマになり、一体、自分は何がやりたかったのかなと考えてみたら、デザインをしたかったなと。そこで卒業間際なのに大阪芸術大学を受けようと決めた。特待生で1名だけ行けるというので、そこからめちゃくちゃデッサンとかの勉強をした。試験にはたくさん人がいてね、その1名には入れなかった。翌2月に一般入試があって、試験免除の通知が来たけど、授業料が高いのよ。うちはサラリーマン家庭やから無理。だから大阪経済大学経済学部へ行った。

池田

そこから、梅原さんの「芸大から経大へ」というお笑いネタができたんですね(笑)。一旦、そこでデザインは諦めたんですか。

梅原

いや、諦めへん。恥ずかしいから言いたくなかったけど、当時は平凡パンチとか週刊誌に「講談社フェイマススクールズ」という通信教育のハガキが挟まれていて、この絵と同じ絵を描きなさいと課題が添えられている。それを描いて送るわけ。講師陣がアメリカ人で、添削はアメリカに頼むというものやった。ある日、下宿に講談社から電話がかかって来てさ、「講談社大阪支部だけど、あなた、才能があるから1回出ていらっしゃい」と言うので、大阪梅田の講談社に行った。担当の人が「この通信教育を続けたほうがいい」と言ってくれたけど、ここでもやっぱり、金なんよ。いや、俺、金ないし。すると、その担当の人がアルバイトで受講費用を賄ったらと紹介してくれたのが、泉屋大阪 TOOという画材屋さん。そこにやってくるいろんなデザイナーさんや美大生らの作品を見ながら学んだ。そこへ高知の爺さんから、RKCプロダクションの採用試験があるぞと電話がかかって来た。

池田

そうしてデザイナー梅原真が始まった。

梅原

だから、デザイナーと言っても、俺の場合はデザイン学校で本格的に勉強したわけでもなく、いわば、まったくの独学やけどね。放送局の美術部というのは、テロップ、レタリング、アニメ、CFスタイリング、イベントの設営監督、なんでもやらにゃあかんのよ。上司ともなんかうまくいかんし、6年ぐらい勤めて辞めた。で、そこからのプロセスはさっき話した通りです。そんな独学の俺が、武蔵美で学生に教えとるんやから、人生って面白いもんや。

池田

以来、高知というローカルに生きることを自分のスタイルとしています。都会に物申す「反骨のデザイナー」という形容をされたりもしますが。

梅原

高知に住んで仕事をしていることで、思考によって豊かになるんじゃないの。高知で生まれたら、高知のデザインがあるやろ。見た人に“あんた、高知生まれじゃないの?このデザインは”と言われるみたいな(笑)。俺はそう言われたいと思うし、土地の個性から生まれてくるデザインがええんじゃないの ?

沈下橋の向こうから見た目線が俺の中にずっとある

池田

梅原さんが、沈下橋の向こうに住むということで、地域の人に伝えたかったことはなんだったのですか。

梅原

それは現在でも変わらないメッセージやね。沈下橋は川が増水したら濁流に飲み込まれて隠れて見えなくなり、水が引いたら、何事もなかったように、けろっと水面に顔を出す。生活道として、この橋を使う村人からしたら、大水が出るたびに対岸に渡れなくなるので不便なのもわかるけど、四万十川の大事な風景であり、川と生きる生活の知恵から生まれた文化の象徴でもある。行き過ぎた世の中に「これぐらいでええんじゃないの」と、沈下橋が伝えてくれているのではないかと。まっ、俺も台風の時、沈下橋が水面に沈んで、鉄橋をよじ登って渡ったことが3回ぐらいあるけど(笑)。あれから30年以上経っても四万十川にある47の沈下橋は今も残っています。移り住んだ当初は、「沈下橋が好きな変わった人」と地元の人にずいぶん噂されたけれど、俺が沈下橋に住んだのも、少しは役にたったのかもしれん。

池田

沈下橋の向こうに、人生を変えるほどの一体、何が見えたのでしょう。

梅原

今になって思えば、あの頃は社会の向こうから世の中を見ていた、社会から一歩退いた客観性の中にいたわけで、そこにいると、いろんなことがよく見えた。社会の本質がよく見えた。これが今の自分につながるデザインの発端というか、スタートラインになっているんじゃないかと思う。ここでの3、4年のことは自分のベースになっているし、逆の目線で逆からスイッチを入れるというか、今の仕事をするのにそこからの目線というのは、ずっと俺の中にあるな。

池田

今、「風景」というコトバは、梅原さんのデザインと1セットのイメージがありますが、風景を意識し始めたのも、このあたりから?

梅原

そうやな。考えてみれば39歳までは自分の仕事の中に「風景」はなかったなあ。沈下橋のたもとに住んで、川の一斉清掃で岸の木々の枝にレジ袋が引っかかって、びらびらしている光景をみた気持ち悪さから、それがのちに新聞バッグへとつながっていったし、しまんと茶、しまんとRED、しまんと地栗といった一次産業のための商品開発へと広がっていった。今、取り組んでいる「しまんと流域農業」もそう。地域の生き方を自分たちで作り上げていくところが一番面白いところ。これからをどう生きていくのか、自分たちのところにあるもので生きていこう、添加物を入れないで生きていこう、交流して生きていこう、そういうこともデザインだと、地域の人々の営みやら風景に教えてもらった。

池田

しまんと流域農業、ですか。

梅原

俺たち四万十の農業は、小学生が学校の帰りに畑のトマトをかじってもいい野菜。自分たちでその基準を決めて、自分たちの基準が四万十流域のココロザシにあった農業をしているので、自然とそこにできる野菜は無農薬、オーガニック。栽培期間中、農薬不使用。これも「流域」のデザインや。
このコロナをきっかけに、この安全なものが届くビジネスとして本格的に始めたところ。ずっとエコノミック、エコノミックで生きてきて、コロナで立ち止まった。これからは「地面」というものが大事じゃないかというサジェスチョンもやっていきたい。行政じゃないから流域をまとめることはできないけれど、オーガニックをやっている人たちをグループ化して、「しまんと流域農業」という価値をブランド化しませんかというデザインやね。こんな感覚が行政にあればええなと思うけど、ないのよ。むしろ、一人のデザイナーから始まった構想が広がっていけばいいなと。これも沈下橋の向こうで学んだこと。